
A・デュマによるモンテ・クリスト伯、日本では岩窟王(がんくつおう)の方が通りが良いかもしれない。
一番興味をひかれたのは「知恵」
復讐をテーマにした物語であり、私が借りた本は児童向けにかなり分量がスリムになっている。3時間もあれば読み切れる分量だ。
私は特にファリア神父から知恵を授かる場面が好きで、他の書籍でも主人公が知恵者から知識を授かる過程などのシーンで好きな物が多い。
さて、ファリア神父の言の中でもちょっと頭に残ったフレーズがある。
「わたしはローマの図書室に、五千冊ばかりの蔵書をもっていてね。それを何度も読み返しているうちに、うまく選択した百五十冊の本さえあれば、知っていて役立つもののすべてが得られることを発見した。そこで私は、その百五十冊をくりかえし読んでいたからね。逮捕されたときはそれらの本をほとんどそらんじてしまっていたんだよ。」
当時と比較すると、書籍はそれほど貴重な物ではなくなっており巷(ちまた)に溢れている。所有している書籍の数だけの比較、これまで読んできた書籍の数だけの比較であればファリア神父と同じかそれ以上にはなるだろう。だが、私はファリア神父ほどの知恵者かというと足元にも及ばない。
似たような内容、同じような内容の書籍も私の読んできた本の中にはあったであろうがそれらの根底にある共通項、エッセンス、一番重要な情報を見抜く目が私には明らかに足りていない。
ファリア神父は五千冊の中から百五十冊の本に絞り込んで、それを諳(そら)んじることができるまで繰り返し読んだとのことだが、私にとっての百五十冊は一体何になるだろうか。
今、自分の部屋の本棚に収まる本が大体、300冊程度だ。これらの本は、上手く選ばれた本だろうか。ただ、本棚を埋めることで満足していないだろうか。
よくよく私の部屋の本棚を見てみると、最後まできちんと読めていない本もちらほらある。
最後に読んだのが5年以上前という本もある。
私の部屋の本棚は今、十分に機能していない。
今後は自分の中の百五十冊として絞り込むならば、それは何か?どう選ぶか?という視点で本を選択していきたい。