【思考実験】デカルトのわれ思う故に我ありについて考える

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「われ思う故に我あり」とは17世紀のフランス人哲学者ルネ・デカルトの言葉だ。さて、この言葉はフレーズだけは耳にするのだが、あまり深く考えたことは無かった。

ちょっとした空き時間に、思索にふけってみようではないか。

想定

太古から哲学者達、いや私たちは様々な物を疑ってきた。

例えば、今生きている私たちのこの世界は夢の世界に過ぎないのではないか。この世界はただの想像の産物に過ぎないのではないか。そういう途方もないことについてすら、私たちは想像という手段を以て疑う事ができる。この自然界の現実性は全て疑い得ることができるのではないか。

しかし、どう考えても正しいとしか思えない様なこともある。

例えば、催眠術師が1から10までの数字を数えてくださいと観客の一人にお願いするとして、その観客が1、2と数字を数え始める。しかし、彼は途中で7を飛ばしてしまう。そして、そのことに気が付いていないのは本人だけなのだ。そういう場面を見たことは無いだろうか。

ある人にとっては自明でも別の人にとっては自明ではない

先の催眠術師の例は少々特殊な状況かも知れないが、ある人にとっては数字が6,7,8と続くことが自明であっても、催眠術にかかって人の認識では6,8,9と続いていくことが確実で自明に思えるのかもしれない。

別の例を考えてみよう。

例えば、何かに熱狂してしまうと頭に血がのぼり他の人と自分とでは世界の見方が違うという極々あたりまえの事実も見えなくなってしまう。そういう場面を目撃したことは無いだろうか。

これも催眠術の時と状況は似ており、まるで何か悪霊に憑りつかれたように、さきまで自明であったものが見えなくなってしまうのだ

その自明であったものが見えなくなる悪霊の事を欺く悪霊と呼ぶことにしよう。ラプラスの悪魔のようなものだ。

欺く悪霊の手はどこまで及ぶか

先の例では、欺く悪霊は何かに熱狂している人や催眠術にかかった人のように、特殊な状況・外圧にさらされた人に憑りつくような印象を受けるが実はそうではないのではないか。

私たちは、集団で生きる為、社会を構築して生きる為に明らかに誤りであるような論理、常識を疑えなくなっているのではないか。社会の中に生きる人の全てのDNAに欺く悪霊は埋め込まれているのではないか。

疑い得ないものはどこか

人生とか世界とか途方もない物から、数字の数え方というシンプルな日常の作業、そして社会生活、これらのものは疑い得るものだった。

しかし、これらを疑うことの妥当性を判断するためには、論理的に考える能力に頼らざるを得ない。私たちの思考能力について中立的な視点から判断するためには、それを評価する思考能力を常に持っていなければならない。

疑うことの源泉は、論理的に考える能力だ。

論理的に考える能力は、どんなことであれ何かを疑う時にはその根底に無ければならない

ある特定の主張が正か否かについて疑うことはできる疑う以上は、疑いを生む源泉である論理的に考える能力は疑っていない。

何かを疑うこと、真剣に考える時にはその疑いを生む自分の能力自体は疑っていない

自分の疑いを生む能力自体を疑おうにも、その疑いを生む能力をやはり疑っていないのだ。

自分の疑いを生む能力について精々言えるのは、役に立ちそうだとか役に立たなさそうだとかその程度のことのようだ。

 

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